俺の日記に6万アクセス2018/03/13

計算してみると、どうやら3/10にこのブログのアクセス数が6万をこえたらしい。
震災の直前に初めてから約7年。
特に何かの領域に特化している訳でもなく、誰の役にも立たないような
平凡な日々の出来事、思ったことをとりとめもなく書いただけの、
他人から見ると「へー。」「ふーん。」で終わる内容。

にも関わらず、コメントを書き込んでくれる人もいるし、
Facebookにコメントをくれる人もいる。

そもそもは、これまで何度も日記をつけてはやめて、つけては諦めて、
自分の歩み、感じたことをどこにも、誰にも残せないということに対して、
パソコンを触ることが多いという点で、日記帳よりも触れる機会が多いので、
続くんじゃないかと、ふと思ったことからブログを開始。

今日時点で60,092アクセス。

後から自分で読み返せるし、万が一俺に何かあった時に、個人情報は残せないけど
どんなことを感じ、どんなことを考え、どんな男、どんな人、どんな親だったのかを
うかがい知るための一つの道具になるかもしれないと思って始めた。
それは、今のところではあるが間違いはなかった。

それと、ブログを始めてから確実に気付いた点。
自分の日常を文章にしてみると、
「なんて平凡な日なの?」
と思う日もあれば、
「平凡そうだけど、これは楽しむべき、喜ぶべき事。」
と気付かされることが、かなり多いことに気づいた。

先日の震災7年目にも思った感覚とちょっと似ていて、毎日は平凡なんかじゃなく、
「有り難い」ということ。
つまりは「”平凡、いつも通り”と言うのは、決して当たりまえじゃない。」。

そして、それをブログに綴るのは
「平凡に思えるかもしれないが、実は奇跡的な一日を生きたということ」
を証明することになる。

酔って誤字脱字があっても、文脈が支離滅裂でも、
つまりはそういう1日だったということが残る。

第一義的には、人に読んでもらいたいということではないことは確実。
但し、読んでもらいたくないのかと言われると、そんなことはない。
日々読まれるとそりゃ気恥ずかしい部分はある。
でも、自分の過ごした日々に、自分自身には意味があったんだということを伝える、
必要かは別として後世に残すという手段にはなる。

後世に伝えても恥ずかしくないような、人として間違っていない、
「生きとし生けるもの」として精一杯生きたと事実を残せれば。

自分の過ごした日々を「凛」としたものとして受け入れらるように過ごさないと。