歳なりに考えること2018/05/27

昨日の木こりデーのおかげで、本日ベッドから起きるのも一苦労。
というか、夜中に寝返りをした際に、身体の痛みで目を覚ます事態。

最終的に目を覚ましたのは5時過ぎ。
しかし、ホームグラウンドの仙台港に釣りに行って、のんびりしても良いかな~。
なんて思っていた前日までの考えを、全否定せざるを得ない状況であることを悟り、
部活で一番先に家を出るかずの起床に合わせてベッドから出ようと決断・・・。
つまりは、今日は趣味・娯楽に費やすほどの体力がないので、
ゆっくりするしかないのである。

午前中はホーマック、マツキヨに行って、整髪料、かずの傘、目の洗浄液購入。
その後、庭の扉の修復等々、こまごまとした買い物を済ませたり、ちょっとした
DIYをこなしたりと、身体にそれほど負荷をかけないような仕事をこなす。

身体が痛くとも動いてしまうというのは、もうどうしようもないらしい。
前々からそれとなく認めてはいるものの、つまりは
「じっとしてる、同じことを繰り返しやるということが苦手」
な人なのだと思う。
そんな自分が、昨日山にこもり、休憩時間を含めると約7時間、ひたすら木を運ぶ。

材木屋だった父を手伝ったことは数え切れないほどある。
でもそのイメージは
「受注→配達→予測→手配→入荷→提案」
という程度でしか感じてなかった。
しかし、多くの時間は
「倉庫からトラックに材木を積み、トラックを運転して、現場で降ろす」
という時間に割かれる。
つまりは物を運ぶという繰り返しの作業。

今自分が担当している仕事は、毎回違うお客さんと、それぞれ全く違う環境を
どうすれば良い環境にできるのかということを一緒に考えるということが多い。
物を運ぶという一見単純な作業と比べると大きく違い、状況に応じて
様々な経験、知識、関係者を巻き込む必要がある。
上手く説明はできないが、仕事を差別している訳ではない。
ただ、前に書いたように、
「じっとしてる、同じことを繰り返しやるということが苦手」
な自分からすると、材木屋を含む、物を運ぶという仕事は、
かなりハードルが高いという意味だ。

でも、昨日一日ひたすら「運ぶ」という作業をした結果、
単純に思える「運ぶという仕事」が「ただ運べば良い」ということではない
ということが「ほんの一部だけ気付いたような」気がする。
上手く言えないが、簡単に言うと「運ぶ技術」が多々あるということ。

技術には、実際の行動面もあれば、メンタル面もある。
今回一番つらかったのは、同じことの繰り返しがつまらなくて苦痛ということ。
しかし、苦痛は苦痛なので、それをなんとかクリアしないといけない。
それをクリアすること、・・・それも技術ということだ。

作業内容、考え方、苦労する部分は全く違えど、いろんな仕事が並行して
進むことで今の生活があるのだと実感。
自分の単純作業があって、今の社会生活があるということ。

歳をとると、こんな考えが底辺に溜まって来て、どんどん堆積される。
その土台がつまりはどんどん経験、余裕になるような気がする。
堆積物がどれだけ溜まるか、堆積物をどれだけ肥料にするかが大事なのかもしれない。

約7時間、ひたすら同じ道を苦痛に感じる重さの木をかついで歩き続ければ、
どうしても哲学的な思考が浮かぶ時間があり、
そんな思考が時間を紛らわせてくれた上、新しい発見というか気付きが出来た。

この経験が歳なりに考えられるというベースになっているということなのかも。
単なる「歳」ではなく、「歳という堆積物」のおかげなのかもしれない。

なんて思っているともはや夕方・・・。
久々に南川ダムでジャスを思いっきり走られてあげようと車で向かう。
身体が痛いことを忘れて、展望台に登って、太腿が悲鳴があげるとともに、
生い茂った木々のせいで、景色は良くないという結果・・・。
これも堆積物の一つと割り切る。

今回は、目的の広場からちょっと離れた場所に車を停めた。
目的の場所までの途中にある「山形そば花一匁」。
気になる・・・。
しかも、わかりにくいかもしれないが、写真の中段右には「SOBA」の看板。
こんなところでもインバウンド対応なのかと、なんとなくさらに感動。

その先にあった「樹木葬」。
どういうことかはわからないが、もしかすると片倉小十郎の墓のように
墓標を木にするということか。
でも、万が一その木が誰の墓標か判らなくなったら、伐採されたりしないのか?
なんて余計な心配的なことが頭をよぎる。

そして目的地であるだだっ広い緑の絨毯の上でフリスビーを追いかけるジャス。
何度投げられても楽しそうに追いかける。

何度同じことが繰り返されても、それを「受け止める」、「楽しみを見つける」。
それを臨機応変に出来るようになるためのベースとなる堆積物を
時間をかけて溜めていく。
それが歳なのかもしれないし、歳だからこそ至った思考かもしれない。

これも歳のせいかもしれないが、暇だとやはり哲学的になる。
が、明日からはまた哲学からは程遠い現実が待っている。
・・・でも、それで死ぬ訳でもないし。
仕事関係の方々へ業務連絡です。
なるようにしかならない精神で行く宣言、
つまり皆さんにご迷惑をおかけする宣言をします。
既にご迷惑おかけしているので、要するに今までと変わりませんね。